第1課題
原初的記憶を映像の中で語りまとめる
授業内制作
3rd
石井祐里佳
映像 1:00
初めて自分の名前を漢字で書いた時、それが自分の名前だと認識できなかった。
母が書いたものを真似するが、書き順はバラバラでそれは文字というより絵を描いているようで、名前が目に見える私という個人を証明するものであるということはわかっていても幼い私は漢字の名前が唯一無二のものだという実感がなかった。
第2課題
ありえるかもしれない未来
小さな殺意
立体・写真 スチレンボード・プラスチック
3×3(cm)
人を殺すかもしれないという未来。
「死ね」「殺したい」最近こういった発言をよく耳にする。この発言をした本人たちは本気で殺そうとしているわけではない。意識せずとも殺人が罪であることを感じているのにこういった発言をするのはある意味命に対する軽視なのではないだろうか。
この立体の中では殺人が許されている。軽い気持ちで言ったとしても確かに抱いた殺意である。実際に殺したらどうなるのか、殺意を抱いた人間が周りに多数存在する恐ろしさ、そして殺されるということの恐ろしさを認識し、我々の発言の軽率さを今一度見直してみるべきである。
小さくすることで人々にじっくりみてもらえるようにしたが、じっくり見ると血や吐瀉物がたくさん描かれている。小さいからかわいいだけでなく、どきっとしてもらえるようにした。拡大された写真も同時に展示することで「殺す」ことの罪の大きさを表現した。
第3課題
今ならできること/今しかできないこと
手をつなぐ
立体 紙粘土・針金・ラベルシール
200×200(cm)
友達を作ることは今しかできない。
Twitterという現代の媒体を使い、自分自身の中心である顔と相互フォロワーのアイコンの手を繋いだ。
手と手を繋ぐ、すなわち握手は友好の証として使われている。
Twitterのフォロワーには顔を見たこともない人が多数いるがフォローすることにより見解が広がることもある。その人が私に影響を与えたというのは今の私を形成するにあたり、一つの大事な要素になると思う。
SNSという表面だけの薄い繋がりだが、人と人が関わることに薄いも厚いも存在しない。
立体作品に起こすことで、触れるようになり見えない関係を可視化した。人と人が繋がる瞬間というのは本当にタイミングが合わないとできない、まさに今しかできないことである。
第4課題
死んだ言葉はどこへいくのだろうか
立体 発泡スチロール シンクロナスモーター
200×200×180(cm)
死語(言語学的に正しくは廃語)は字の通り死んだ言葉である。
私達が一時の流行りのために生んだ言葉は時が過ぎると簡単に捨てられてしまう。元々目に見えない言葉が捨てられた、あるいは死んだ時。一体どこへいくのだろうという疑問から生まれた。
「死んだ言葉はどこへいくのだろうか」という疑問の答えは「どこにもいかない」というのが制作を通しての答えだ。
死語と決めつけているのは私達であり、言葉そのものは存在するのである。先へ進もうと新しいものを取り入れていく現代人にとって死語は古い人間だと表すものになるので、生みだした言葉に蓋をしてなかったことにしているのだ。
そうして積りに積もった言葉たちは山となり、今もなお積み上げられている。回転している文字のように再び生き返る言葉もあるが、それはこの山をゴミあさりのごとく掘り返しているだけである。
積みあがった死語の山は、目に見えないだけで何百年も先になると世界中に広がるのかもしれない。